3.11/東日本大震災の記憶|東京でサラリーマンだった僕が帰宅困難者になった話

頑張って薪割りをしていますが、ヒノキの間伐材はまだまだ消化しきれそうにありません。このままでは地面に近い方から傷んでいくのではないかと少し焦っています。

ストーブの為の薪を作るには、チェーンソーで炉内に入る長さに原木を玉切りし、斧やクサビで割っていきます。

チェーンソーの爆音が鳴り響くなかにおいても、[2時46分]の黙祷を促すサイレンは桁違いの大音量で、僕の耳に届きました。

 

もう6年も前のことです。

逆回転することのない時間の経過は時に無情です。

今日は当時のことを自分のための「備忘録」として、簡単に書いてみたいと思います。

当時の僕は東京の会社で働いていました。

2011年の[2時46分]轟音と共に全てが揺れだし、身体を自由に動かすことが出来なくなりました。

「逃げろ!」

と声を発してくれた定年間近のおじさんのことをよく覚えています。

殆どの上司は自分のことばかりで的確な指示を出した人はいなかったと記憶しています。

定年間近のおじさんが、「こんな地震、初めてだ…」と言っていたことが印象的だったのですが、誰も経験したことのない巨大地震ですから、的確な指示を出せる人がいなかったことも仕方のないことなのかもしれません。

就業時間が終わった後も社員のみんなは会社のテレビに釘付けでした。この時はまだ、津波のことも原発のことも、僕を含め誰も知る由もありませんでした。

この日は金曜日ということもあったし、中途入社の僕は、表面上は誰とでも仲良くやっていましたが、実はこの会社にいることが苦痛でしかなかったので、みんなの冷ややかな視線を感じつつも、いつも通りの時間で退社することにしました。

唯一腹を割って話すことの出来る、数少ない中途入社仲間も、この時ばかりは僕の行動に賛同することはなく、「こういう時は下手に動かない方がいいと思います。」と、やけに優等生っぽいことを言っていました。

この時直ぐに退社したのは、恐らく僕一人だけだったと思います。

退社時間は[17:30]くらいでした。

 

いつも通り山手線に乗って、乗換駅である「新宿」を目指すつもりでしたが、やはり地震の影響で電車は止まっており、仕方がないので他のお客さんと同じように復旧を待つため、改札前に腰を下ろしました。

数十分も経過すると、改札前には長蛇の列が出来ていました。

唐突にJRの駅員が現れ、「本日の営業は終了しました。」と言って、おもむろにシャッターを下ろし始めました。

予想していなかった事態でしたが、誰一人文句も言わずに駅構内から出ていきます。

どうすることも出来ないので、他の電車会社やバスなどを使って帰るしかないかと、僕も立ち上がりました。

街に出てみると、明らかにいつもの金曜日よりも人が多いことがわかります。

地下鉄も動いていませんでした。

バスを待ってもみましたが、いつまで経ってもバスは現れず、次第に一人、二人と痺れを切らした人から順に、バス停を離れていきました。

そうなると堰を切ったように、ベンチに座って待つことの出来た人も含め、次々にバスを待つことを諦め、歩き出すのでした。

僕は何となく新宿方面に向けて歩き出しました。

途中コンビニに寄って、ずっと止めていた煙草を買いました。

久しぶりに吸う煙草はたいして美味しくありませんでしたが、一人でいる心細さは、多少は解消されたのかもしれません。

沢山の人が国道を歩く姿は、見たことがないはずの「集団疎開」や、「戦時中」、若しくは「隅田川の花火大会」を彷彿とさせました。

お腹が減ったのでコンビニに入るも明らかに商品は少なく、手軽に食べられるおにぎりやパンなどは殆どが売り切れでした。

適当な飲み物を買って、たまに座っては煙草を吹かしました。

途中、交番が目に入れば立ち寄り、新宿方面を確認するのですが、警察官もイライラが募っていますから、「全然逆!あっちだよ!!」などと、強めに道案内されることが多かったです。

また、何の施設かわかりませんが、色々なところで、「トイレありますよー、トイレ使って下さーい。」といって、助けてくれる人たちがいました。

こういった人たちの親切を受けたり、これまでに入ったことのなかったディスカウントショップなどに入ってトイレを借りました。

その日は週末の金曜日でしたし、まだ誰も東北が大変なことになっていることなど知らない時でしたから、僕は貴重な経験が出来ていることに多少の興奮を覚えていました。

僕はスーツ姿で歩いていたので、早々に革靴を履いた足が痛くなっていました。

タクシーに乗るか、思い切って安い自転車でも買ってしまおうと思いましたが、驚くことに、ドンキなどのお店ではどこも自転車が売り切れていました。

タクシーに至っては、空車のランプが点いたものは結局一度も目にすることがありませんでした。

僕は度々道を間違えてしまい、何度か同じ交番に入ることもありました。

二度目だと更に苛つかせてしまうだろうなと思いましたが、僕のことを覚えていたおまわりさんは一人もいませんでした。

立ち代わり人が訪れるのだから、これは当たり前ですね。

繁華街を歩いていると、多くのホテルは帰宅することを諦めた人達で溢れ、満室ランプが点灯していました。

こんな時は男よりも女性の方がドライというか、強いのかもしれません。

僕は2、3組のカップルがホテルに入っていくところを見ましたが、女性に引っ張られるようにして入っていく情けない男の姿を見たときは少しだけ元気になりました。

この時の僕は、自宅以外でインターネットに繋がっていること、つまり常時接続のスマホを持つことに気味の悪さを感じていた時期だった為、インターネットを使った情報収集が出来ずに困っていました。

インターネットが使えれば、電車の復旧情報も、自分の現在位置も確認出来るので、これまでの自分の考えは正しかったのだろうかと、そんなことを考えさせられもしました。

また、自宅のマンションには4匹の猫が僕の帰りを待っています。

そして、大きめの本棚にはなんの地震対策もしていなかったので、もし、この本棚が倒れていれば、下敷きになってしまった子もいるのではないかと、気が気ではなかったことを覚えています。

そして携帯電話もずっと不通状態だった為、僕は前時代の人間と同様の環境で、この大震災の日を乗り越えようとしていたのです。

4、5時間が経過した頃に入った交番で道を尋ねると、ようやく復旧した地下鉄があることを教えられました。

僕は復旧したと教えられた大江戸線に向かって歩き出し、遂に新宿に辿り着くことが出来ました。

新宿から自宅マンションまでは、いつもなら小田急線に乗るのですが、残念ながら小田急線は復旧していません。

しかし、京王線は動いていたので、京王線で行ける、マンションから最も近い駅まで進み、そこからは痛くなっていた足を引きずるようにして数十分ほど歩き、何とか自宅まで辿り着くことが出来たのです。

部屋の時計を見ると、ちょうど[0時]を回ろうとしていました。

自宅の猫たちは、いつものように本棚の上や出窓で、何事もなかったかのような穏やかな顔を僕に向けてくれました。

被害は、本棚に乗せていた温度計が一つ、床に転がっていただけでした。

明くる日の土曜日や日曜日はずっとテレビに釘付けでした。

月曜日になっても小田急線は不通だったので、バスに乗って京王線の最寄り駅まで向かい、大遅刻が確定していましたが、それでも会社に向かいました。

その日は出社出来ない人の方が多かったくらいで、僕は大遅刻しながらも会社に辿り着いたというだけで、とても褒められました。

今だから言えますが、会社の最寄り駅に着いた時点でいつもより3時間ほど遅れていたので、僕は開き直り、マクドナルドでコーヒーをゆっくりと飲んでから会社に向かったのでした。

 

[おまけ]

この震災では、日本人よりも在日の外国人や、外国に住んでいた日本人の方が事態を重く捉えていたと思います。

親しい人の会社では、フランス人やスペイン人は早々に出社を諦め、第三国に飛んだり、自宅から出たくないと出社拒否をしたといいます。さらに彼らは、飛んだ先の第三国や自宅で仕事をするからと、自作のタイムスケジュールを提出してきたりと、逞しさをみせたといいます。

またこの頃、海外に住んでいた僕の兄から、「今直ぐ逃げてこい!」といった、少しヒステリックなメールが届きました。

この時の僕には、身分不相応な安定企業を離れるという決断は出来ませんでした。

まぁ結局はこの数年後、会社を辞め、小屋暮らしをすることになるのですが…。

 

【購入者:アメリカ人✕2】
【LED照明点灯時間:∞】

 







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