窓から差し込む光は何処へ行っても輝いて見えるけど、東京では届くまでにたくさんの障害物があるから、ついそのことを忘れていたのだと思う。
東京にだってたくさんの自然が残っていると思っていたけど、僕がみていたのは、大きな植木鉢のなかの自然だったんだなと気がついた。
初めて知った“野生”の自然は、剪定された行儀の良さはもっていなかった。捻くれたり、ツルに巻かれたり、光を競って不自然に成長したり、虫に喰われたり、枯れたり、人に迷惑をかけていたりした。
こんなことを書くと東京の自然はまるで偽物みたいだと悪く言っているように聞こえてしまいそうだけど、そんなことはなくて、それぞれの違いに気がついただけだと思う。
田舎の自然には敵わないと思うことはあっても、東京の自然にだって田舎に負けないくらい凄いところはある。
あそこまでシステマティックな世界だと、本来脅威だったはずの自然がまるで使役されているように見えてくる。こんな風景を作り上げているだけでも、東京は凄いと思う。
使役されているように見えると書いたけど、自然からすればこれは悪いことばかりでもないと思う。
一本一本ちゃんと管理されているのは間違いなく、そのため不自然で不健康な成長をしなくてもいいし、人から疎まれるどころか、大事にされることが多いと思う。
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「インスタント瞑想、掃除のススメ」
もしくは、
「リアルな将来設計、僕を本気にさせたのは花粉症」
このどちらかで書こうと思っていたのだけど、刻々と落ちていく西日と家の植物たちを小屋の中から眺めていたら、全く違うことを書き始めていた。
そして、どうせなら最後はこんな光に包まれて死にたいなんてことを考えてしまった。
そういえば僕は最近、死があまり怖くなくなったと思う。
やり遂げられなかったことは残念だけど、そもそもやり遂げられるようなことを目指してはいなかったのだし、死ぬということは、ただ時間切れになるだけだと思うようになった。
言えることがあるとすれば、延命に次ぐ延命で死ぬ瞬間まで社会貢献するような、使役動物のようにはなりたくないということくらい。
きっとそうなってしまうのは、徹底的に死という恐怖を植え付けられてきたからだと思う。
僕がまだ少年だったころ、死を目前に控えたそんな人たちをたくさん見たことがあった。彼らは最後まで、「お金が欲しい」、「長生きしたい」と短冊に書いていた。
これを見た僕は、お金は幾らでも欲しいし、死は出来るだけ遠ざけていたいというのが人間なんだなと思ったし、所詮人間なんてそんなもんなんだろうって思ったけど、今は少しだけ考えが変わった。
僕の既成概念を壊したのは「旅」だったし、僕の考えを裏付けたのは「自然」だったのかもしれない。
では僕を「旅」とか「自然」に向かわせたのはなんだったのだろうか?
きっとそれは、「逃げ出す」とか「投げ出す」といった類の「勇気」だと思う。それがかろうじて僕の中には残っていたということなのだと思う。
自分の人生を生きるということは、自分の目でみて自分の頭で考えることだ。
それが出来ていれば死をそれほど恐れることもなくなると思う。
心配しなくてもその時がくれば必ず死ぬことが出来ると分かっているだけで、それだけで良いのかもしれない。
【煙突掃除】
【LED照明点灯時間:∞】