目を覚ますとまた雨が降っていたので、車で遠出でもしようかなとぼんやりと考えていました。
しっかりとした目的がなくても、車を運転していれば「ドライブ」ということができます。しかし車に乗っているから分かりづらいだけで、やっていることは「徘徊」と同じです。
from Tiny House Periodicals – 30代で早期退職した小屋暮らしの日記(仮)
目を覚ますとまた雨が降っていたので、車で遠出でもしようかなとぼんやりと考えていました。
しっかりとした目的がなくても、車を運転していれば「ドライブ」ということができます。しかし車に乗っているから分かりづらいだけで、やっていることは「徘徊」と同じです。
昨日図書館を出た時には既に暗くなっていたのですが、近場では買い物が終わらなかったので、普段は行かない遠くの町まで足を伸ばしました。
具体的には、隣町のダイソーでは欲しかったものが品切れだったので、隣町の更に隣町のダイソーまで足を伸ばしたのです。
ちなみに、僕の住む「市」には、インターネットで検索しても100円ショップの「ダイソー」が見つかりません。
図書館でパソコンを開くと、元同僚(定年退職者)からメールが届いていました。
図書館でしか使わない作業用パソコンのメーラーにだけ残っている古いアカウント宛に送られたメールだったので、危うく見落としてしまうところでした。
送り主のオジさんは共産党員です。それが故に?会社の労働環境にとても口うるさい一面がありました。
僕の勤めていた会社には労働組合があったので、職場環境のことはそこに任せておけばいいのにと言っても、オジさん曰く、労働組合は全く機能していないから任せておけないのだそうです。
ずっと雨が降り続いているお陰で気が晴れません。
幾らでも眠っていられそうな気がしますが、実際のところ、ずっと眠ってはいられません。
目が冴えて眠れなくなったり、横になりすぎて身体が痛くなったりということもありますが、僕みたいな者でも生きていれば何かしらの雑事に追われているので、いつまでも寝ていてはいられないという気持ちになってくるのです。
その点猫は、雨が降るとその日は一日中寝てばかりなので、憎らしいような羨ましいような、複雑な気持ちにさせられます。
移住前の天候に対する意識は低く、どれも大雑把な記憶しか残っていません。
例えば、、
・夏は、扇風機だけで凌ぐから自宅は暑く、会社へ向かうときはコンビニや、駅のコンコースの雑貨屋、本屋などエアコンの効いた店で休みつつだった
・冬の寒さには、炬燵やファンヒーター、ホットカーペットなどを試してきたけど、最終的に灯油ストーブに落ち着いた
・梅雨時期は良く雨が降るから傘が手放せないけど、一日中振り続けることは稀だ
・雪が降ったり台風が直撃すると電車が止まるから、いつもより早くに出社しなくてはならない
最近飲んでいなかった牛乳を気まぐれに飲んだら美味しくて、ここ三日間は連続で飲んでました。飲んだ後の紙パックも薪ストーブで直ぐに焼くことが出来るので、その点でも気に入っていたのですが、流石に牛乳ばっかり飲んでいたので飽きてきました。
一昨日から作り始めたカレーは、夜間も絶えず目の前の薪ストーブの上に乗せられていたので、スープ感覚で何度も手軽に飲んでしまい、そんなことをしていたので今日の夕飯で食べる頃には、既に飽きていました。
三日間、毎日ひとつずつ食べる予定だったプリンを一日で食べてしまったので、次はこんなことがないように気をつけなくてはなりません。と、書くのは簡単ですが、実際のところ、食品の買いだめは難しいと思います。
野生動物の喧嘩の鳴き声を聞いたとき、それが昼だったら猿で、夜だったら野良猫という場合が多いです。
鳴き声といえば、日中は鳥とカエルがのべつ幕なし鳴いているし、考えてみれば近くの川の音が延々と聞こえています。
不思議なことにこの川の音は、そこそこ大きな音を発しているというのに、普段はノイズキャンセリングされたように耳には入ってきません。
突然ですが、「足るを知る」と「住めば都」は少し似てるというか、根っこのところでは繋がっているのではないかと思います。そしてこの2つの言葉を良い言葉だと鵜呑みにするのは危険だと思います。
貧乏な生活がキツいから、頑張ってそこから抜け出そうという人と、貧乏な生活も捨てたもんじゃないと日々の生活の中に幸せを探そうとする人と、一体どちらが正しいのかと答えを出せる人はいないと思います。
寝る時間が徐々に遅くなってきたことに危機感を覚えました。
ここが頑張りどころだと昨日は2時間くらい早くにベッドに入りましたが、起きた時間は変わらず10時でした。
昨日が祝日だった関係で今日は図書館が休みですが、返却図書があるので結局隣町の図書館まで行かなくてはなりませんでした。
昨日は日記を書きませんでした。
曇っていて電気がなかったし、夕方からは兄が遊びに来たので時間もなかったのです。
兄とは、不足しがちなお金や電気を作る方法についてひとしきり話しましたが、秋の日差しとか空気感の中では、なんとなく気持ちが盛り上がらなかったので、適当に相槌を打つことも多くなってしまいました。
毎日明日こそは晴れるだろうと思い続けましたが、ここ数日はずっと曇り空でした。
今日などは昼の時間に一切電気を使わなかったというのに、1時間もしないうちに夜間のLED照明が使えなくなってしまいました。
僕が初めて触れたソーラーパネルは、少年時代に見た懐中電灯でした。
今でこそ珍しくはなくなりましたが、僕が見たその懐中電灯の背中には、小さなソーラーパネルがついていたのです。
勤めていた頃の起床は、家を出る時間のちょうど1時間前でした。
朝の1時間は忙しく過ぎるので、ダラダラと支度をすれば電車に乗り遅れます。
今日の朝は、のんびりと身の回りのことをこなしてから朝食をとり、その後コーヒーを飲みながら今日一日にやることを整理していたので、あっという間に2時間が経過してしまいました。
ロウが垂れて汚かったロウソク立ても、アルミを敷いて薪ストーブの上に乗せておいたお陰で綺麗になりました。
さて、溶かしたロウですが、適当な瓶に入れ、タコ糸などの芯を入れたらまたロウソクとして再利用できます。
明るいロウソクが欲しかったので、今回は芯を2本入れてみました。
朝起きると、机の上のロウソク立てがロウに塗れて無残でした。
ロウソク立てに、「早く綺麗にしろ!」と言われたような気がしました。
暗い部屋の中では雰囲気のあるロウソクも、朝の明かりの中では輝きを失うようです。
図書館ついでに、ちょっと大きめのショッピングモールまで足を伸ばしました。
ちょうどお昼時だったので、ショッピングモールのフードコートで昼ごはんを食べることにしました。
昨日栗をあげた人から、きび砂糖をもらってしまいました。
拾った栗が洋菓子や砂糖になったことは驚きだし喜びでもありますが、「お返しをしなくては!」という強迫観念から、僕に何かをくれるのだとしたら、栗をあげるという行為は暴力なのかもしれません。
今日は月に一回しかない、全種類のゴミが出せる日でした。
いつもの燃えるゴミに加え、缶やビン、資源ごみを捨てることが出来る日なのです。
割ってしまった急須やコップ、そして3年以上溜め込んだ、釘やコーススレッドからなる鉄ゴミも捨てることにしました。