不便さこそが醍醐味の暮らし

昨日栗をあげた人から、きび砂糖をもらってしまいました。

拾った栗が洋菓子や砂糖になったことは驚きだし喜びでもありますが、「お返しをしなくては!」という強迫観念から、僕に何かをくれるのだとしたら、栗をあげるという行為は暴力なのかもしれません。





近所には、道路に面したスペースに、「ご自由にどうぞ」という看板を立て、廃材や果物を並べているところがあります。

これなら貰っていく人も変な気遣いをすることがありません。

 

移住前のことですが、僕は定期的に断捨離欲を抑えられなくなるという病に冒されていました。

そしてその度に、まだ使えそうな物があれば、「ご自由にどうぞ」という紙を貼って、住んでいたマンションの敷地と道路の境くらいのところに、机やカゴ、ゲームなどを並べておいたのです。

そこそこ人通りのある道だったこともあり、毎回あっという間に無くなりました。

不用品を捨てることも大変な時代なので、持っていって貰えて助かったという気持ちもありますが、フリーマーケットなどで自分が着ていた服や靴が売れていく時のような高揚感もあったと思います。

しかしこの田舎で同じことをやったとしても、家の前を通る人は限られているし、そもそも人通りが少なすぎるので、さばけない可能性が高いと思います。

少し面倒ですが、買取業者に売ったり、インターネットで売ったり、粗大ごみやリサイクルゴミとしてお金を払って捨てたりという正攻法もありますが、今であれば、「庭で燃やす」ということが出来ます。

我が家には、使うことがあるかもしれないと思って初年度から集めていた廃材の山があるのですが、多少は学んで詳しくなった今の目で見ると、明らかにゴミでしかないものも散見されたので、今日は思い切って火に焼べることにしました。

火で燃やしてしまえば多少の灰を残して消えてしまうので、これは毎回魔法のようだと思います。

そして裸火には引き込まれるような魅力があるので好きなのですが、燃やしている間は側を離れることが出来ないので、そこだけは苦労します。

燃やし始めた時間が遅かったので、作業後の風呂に入るころには真っ暗でした。

暗い中にヘッドライトをぶら下げて入るのですが、回り回って、こんな不便な風呂が堪らなく心地よいと思ってしまいます。

日没後に気温が一気に下がったので、殆ど露天風呂みたいな我が家の風呂では、湯船に浸かっていないところだけが冷たくなってしまいます。

そこで冬になると、出来るだけ全身が湯船に浸かるようにと工夫しなくてはなりません。

ちなみに、昨日今日とソーラーパネルの発電がいまいちで、小屋に電気がありません。

そうなると、ロウソクやランタンの光の中で過ごすことになります。

 

例えば、どんなに良いエンジンでも電化製品でも、ずっと使わなければ整備が必要になります。

現代人はもっと不便な環境に身を置いて、頭を働かせて生きなくてはならないのかもしれません。

数年前の僕はまさにこんな感じだったのですが、脳みそを空っぽにすることと思考停止状態の違いが分からず、テレビを見続けたりインターネットにどっぷりと浸かることは、リラックスしている状態ではないのかもしれません。

今の小屋には電気がないのでとても静かだし、携帯電話も持たないので束縛もありません。ブログを書き終わった後にルーターの電源を落としてしまえば、知覚出来ないけど確実に小屋内を飛び交っていたWi-Fiの電波もなくなります。

虫の鳴き声の他には、薪ストーブの上で鍋が発するグツグツという音しか聞こえません。

現在の不便な生活の醍醐味は、水の確保に頭を使ったり、電気が無いから仕方なく読書をしたり、インターネットが十分に使えない代りに夜空の星を眺めるようなところにあるのかもしれません。




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