DIYなどの調べ物をするときは、検索結果にYouTubeが出てくれば、僕自身ブログ記事よりも優先してクリックすることがあります。
作っているところを動画で見れば一目瞭然だと思うからです。
僕の小屋暮らしの目標の一つに、「雇われ仕事をしなくても食べていけるようになりたい」というものがあります。
一つの仕事だけで十分な収益をあげられたらいいのですが、なかなか思うようにはいきません。
心配しているだけでは改善しないので、蒔いた種が大木になったらいいなと思いながら、様々なことに手を出しています。
例えばこのブログからでも、ひと記事書けばお婆ちゃんの肩叩きくらいの収入を得ることが出来るのです。
話をYouTubeに戻しますが、僕でさえブログ記事よりもYouTubeを優先することがあるのだから、世の中の趨勢としてはブログを書くよりも動画投稿をした方がよっぽど実入りが良いのだと思います。
今から4年と少し前に移住してきたのですが、その頃からYouTubeに動画をアップロードしてみたいという淡い夢のようなものがあったので、何気にビデオカメラを買っていたりもしたのですが、越えなくてはならないハードルが幾つもあったために、いつしか動画投稿は後手後手になっていったのです。
もっとも大きな問題は、動画編集が出来るスペックのパソコンが壊れてしまったことでした。また我が家では電力もインターネット回線の問題もあるので、ちょっと気が遠くなってしまいます。
昨日の夜に、何故だか動画投稿の熱が再燃しました。
ビデオカメラはとっくに売ってしまったのですが、考えてみれば僕にはiPhoneがあるので、直ぐには出来ないとしても動画の撮りだめくらいなら出来そうだと思ったのです。
どんなものかとさっそくiPhoneのビデオ機能を立ち上げ、はにかむ自分自身を撮ってみて驚愕しました…。
ちなみに、ここまでが前置きです。
移住して2年目くらいの頃に、左の頬に薄いシミが浮いて来た時が自覚すべきタイミングだったのかもしれません。
どうやら僕は若くありません…。
青年期に別れを告げ、僕は壮年として今一度自らを省みる必要があると思います。
これからも若いつもりでやっていれば、そのうちに誰からも相手にされなくなってしまうような気がするのです。
今更ですが、若さほど尊いものはありません。
若いからこそ優先されたり気を遣って貰えたり、チヤホヤされたり絵になったりするのです。
例えば旅の軍資金を得るために季節労働をするにしても、若いから頑張れるのだし、労働環境の悪さだって若さの前ではちょっとしたスパイスでしかありません。
これが壮年、中年期だとすれば、体力的にも辛いだろうし、どうしたって悲壮感のようなものが滲み出てしまうと思います。
悲壮感の出ている者に対する遠慮とは、若者に対するそれとはまた異ります。
これは海外の安宿でみる、ドミトリーで浮いてしまっている中年のオジさんに置き換えてもいいと思います。
季節労働と似ていますが、例えば若い頃にホームレスの真似事をしたとしても、それは誰が見ても思い出づくりにしか見えません。
しかし壮年、中年期になってからのホームレス体験は、本人がどう思おうと、どうしたってただのホームレスです。
思い出話になりますが、僕は一時期、旅資金を得るために銀行のカスタマーセンターで顧客対応をしていたことがあります。
フレキシブルな働き方が出来たので、同僚にはミュージシャンや俳優女優志望の若者が多かったです。
そんな中に一人、一回り以上歳をとった男性がいました。
彼は小説家を志していると言っていましたが、これまでに出版された著書はなく、また近年持ち込んだ作品もありませんでした。
たまに取材の土産だと言って、饅頭や煎餅などを職場の休憩室に置いていくことがあったのですが、口の悪い連中は影で、「取材とか言ってるけどただの旅行でしょ…?」と言っていました。
確かに彼と親しくなるにつれ、口ばかりで中身がないことが窺い知れるようになり、僕もあまりオジさんとは小説の話をしなくなっていきました。
「ジョジョの奇妙な冒険」のような小説を書きたいと言っていたオジさんは、その後カスタマーセンターの飲み会で若い女の子にセクハラし、職場を去ることになりました。
夢を叶えようと死にものぐるいになっていたり、夢をみることで安心したり、夢と暮らしているような連中ばかりだったから尚更だと思いますが、誰もが自分の将来とそのオジさんを重ね合わせたりはしなかったはずです。
[ちょっと休憩]
口元まで運んで猫草を与えているところ
奥歯で食べたがるからか、うちの猫はみんな食べ方が汚いです…。
・
他人にどう見られても動じないくらいの、極太のメンタルの持ち主なら構いませんが、孤独というものは、たくさんの人の中でこそその意味を強めるものだと思います。
ここまで書いてきたことを読むと、オジさんは若者みたいに旅やバイトをするなといいたいように感じるかもしれませんが、それは本意ではありません。
僕が言いたいのは、なかなか遭遇することはありませんが、「この人から学びたい」とか、「この人のようになりたい、真似したい」、「この人についていきたい」と思われるような大人にならなくてはならないということです。
そのように思える大人たちは、必ずしも成功しているわけではありません。
故に季節労働の職場やゲストハウスのドミトリー、アルバイト先で遭遇することもあり得ると思います。
しかしそんな人たちは、見た目や立ち振る舞い、経験談などから、とても隠しきれない魅力が漂っているはずです。
それを世間一般には、“オーラのある人”と表現するのだと思います。
まとめると、iPhone越しで見た自分は、思っていた以上に老けて見えたので、いつまでも若いつもりではいられないようです。
僕は小屋暮らしという、世間一般的にはあまり良いようには認知されていない生活スタイルを実践しています。
自分のためにもこのイメージを覆したいと思っているので、僕の小屋暮らしからは決して悲壮感が漂うことがないように、今一度気を引き締めようと思ったという話でした。
ps.僕は海外旅行のことを“旅”と表現して来ましたが、今後海外へ行くことがあれば、その時からは“旅行”と表現方法を改めようと思っています。そうしようと思ったのは、“旅”は青年期までの特権のような気がしたからです。
いろいろ考えさせられる深い記事でした。長い間読ませていただいてますが、今回の記事は今後の私の考え方に影響をおよぼすだろうなあという予感がします。
ふと思ったのが昔の歌で「大人の階段のぼる君はまるでシンデレラさ」という歌詞がありました。でもあの歌は歌い手は自分を大人と思ってるけど、所詮は少女に対して相対的に大人なだけであって、実際は壮年、中年が歌ってるわけではないんだろうなあ、と。せいぜい大学生の塾講バイトが女子中学生や女子高生に上から目線で感傷的になってるだけじゃ??と思いました。鏡ではなく、動画に映った客観的な自分、肌がくたびれた自分をみたときの絶望感がないですよね。
長い間読んでいただいているとは、嬉しい限りです…。
>「大人の階段のぼる君はまるでシンデレラさ」
検索してみました。
H2oが歌う「想い出がいっぱい」という曲ですね。
YouTubeで視聴しました。
確かに僕にも思い当たることが幾つかありました。
※いつか日記で書かせていただくかもしれません。
誰かの言葉ですが、やはり今現在がもっとも若い自分だともいえるので、そう思って頑張っていこうと思います。