お天道様が見ているという呪い

今日の仕事の相方はBちゃんでした。

日記-3日目|BちゃんとYouTuber

1月にご飯を食べに行ったことがありましたが、職場で一緒に働くのは約1年振りです。

去年のBちゃんは、本業である映像関係の仕事が減ってしまったので、夏の間だけ僕が働いている宿泊施設で働くことにしたと言っていたので、今年も相変わらず仕事に困っているのかと思いましたが、Bちゃん曰く、今年の働く理由は、「一日中編集作業をしていたら鬱になりそうだったので、昼間に太陽の下で身体を動かしたくなった」といっていました。

今年のBちゃんの映像の仕事に対する姿勢は、「値段の安さではなく、質の高さで勝負したい」みたいな強気な感じだったので、もしかしたら本業の調子が良くなってきたのかもしれません。

 

今日は仕事量が少なめだったので、僕たちは去年同様、カメラや実用的な車の話、そして小金儲けの妄想話ばかりをしていました。

喋りながら仕事をしていたので、今日は時間が経つのが早かったです。

時間を正確に計ることが出来ない人間にとって、よほど体感時間の方が重要になることがあると思います。

単純作業を延々とやらなくてはならない時や、時間を潰さなくてはならない時に僕は、体感時間を短く感じさせる為に頭のなかで数字を数えたりしりとりをしたりすることがありますが、体感時間を早めることが出来るのであれば反対に時間の経過をゆっくりに感じさせる方法もあるはずです。

感覚的なことなので誰かに理解を求めるのは難しいと思いますが、ここらへんのところを上手に出来たら、きっと今よりも時計の針を見て怯えることが少なくなると思います。

 

 

今日の仕事終わり、コインシャワーの入っている大きめの電話ボックスのような部屋の中に入ると、硬貨投入口の付いた四角い装置の上に100円玉が2枚置いてありました。

一瞬高揚感を覚えましたがすぐに思い直し、レセプションにいるオーナーに落とし物だと2枚の100円玉を届けに行きました。

もしこの200円をネコババしていたら、僕は罪を犯したことになります。なのでこれは当たり前の行動なのですが、見えない何かに行動を制限されているような気がして嫌な気持ちになりました。

この呪いのような道徳心を植え付けられたのは、きっと物心もついていないくらい大昔のことだと思います。

 

実は以前、電車の座席の隙間から「一万円札」を一枚、発見したことがあります。

この一万円札から持ち主を特定するのは極めて困難だと分かりますが、それでも僕は駅員に一万円札を届けに行きました。

病的なまでに保守的なのかもしれないし、ただ気が弱いだけなのかもしれません。そう自分を客観視すると、今度はどうしてもその自己評価に屈したくなくなります。

しかしそう思うばかりで、とても僕にはネコババなどは怖くて出来ないのだと思います。

日本で財布を落としても返ってくるということがまるで美談のように語られることがありますが、ただ単に気が弱くてネコババすることが出来ないというだけのように、気の弱い僕は穿った見方をしてしまいます。

お金が欲しいということよりも、この程度の悪事なんて大した事ないと思ってしまえる楽観さ、不真面目が欲しいと思うことがあります。







コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA