野良ネコが誘いに来る

大きく見上げた月は庭の松に一部を遮られ、雲の中を出たり入ったりするように揺らいでいました。

視野の隅に野生動物の気配を感じて身体が少し強張ったけど、あれは野良猫か。

ヘッドライトの明かりに反射して2つの目玉がイエローグリーンの光を放って小さな人魂みたいに見えていました。

 

近所で猫が産まれたという話を数ヶ月前に聞いていたので、その産まれて数ヶ月の子猫かその家族なのだと思うけど、最近は夜中に大声を出して家の猫たちをからかいに来ることがあります。

ただうちの猫たちは基本ぼんやりとしたまま相手にはしません。

 

ここらへんで一番多く見られる哺乳動物は恐らく犬だけど、猫もそれに匹敵するのではないかと思います。

野良犬は淘汰されたけど野良猫は許されたことを思うと、中途半端に強いのも考えもので、良い立ち位置を早めに見つけておかなくてはなりません。

これは感覚的なことだけど、中途半端に出来る人が一番割りを食う世の中なのだと思っています。

 

擬態でもして隠れたくなることがあります。

 

寒い季節に雨や雪が降ると野良猫が心配になりますが、狐や狸や貂やハクビシンなんかを可哀想だとは思わないのだから、人間の脳みそは便利に出来ていると思います。

ペットのミニ豚を可愛がったその手でトンカツを食べるなんて当たり前のことだし、例えば九官鳥の写真をせっせとSNSで共有するような鳥好きだって、焼き鳥の屋台の前を通れば”旨そう”だと思うに違いありません。

動物肉を食べなくなって丸8年以上が経つ自分でも、未だに焼き鳥屋さんの煙は旨そうな匂いだと認識するし、肉を食べないことで放棄している多くの喜びを想像して悩むことがあります。

 

若い頃はもっと潔癖で、ON・OFFスイッチしか付いてないみたいに物事を分かり易く捉えていたのに、それが知らぬ間に妥協を学び、物事を複雑にしてしまいました。

社会に(理不尽に?)揉まれた人は愛想が良く、そして妙に礼儀正しく仕上がるイメージがありますが、それは彼らが生き残るために必死で身につけた処世術なのだと思っています。

そして無理した反動はどこかに影響するものだとも思っています。

例えば人に心を開けなくなっていたり、思い切った挑戦が出来なくなっていたり、本当の自分はもっと違う筈だと現状を直視しなくなったり…。

 

昨日の夜、昔書いたものから最近のものまで、自分の日記を掻い摘んで読んでみたら大変なことに気がつきました。

最近の日記たちからは、まるで内省が感じられなかったのです。

行き詰まった時は生まれ故郷に帰ったり昔通った学校を見に行くように、いつか自分の日記を読み返したくなった時、いくら読んでもその時に考えていたことが思い出せないような薄っぺらいものなら態々デジタル化してアーカイブしておく意味がないのです。

 

もっと自分の”日記”を書かなくてはなと反省しました。







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