古文書を燃やしてごめんなさい

昨日の日記で、僕は200年前の古文書を焼いたと書きました。

そのことについて、コメントにてキツいお叱りを受けましたので、先ずはその謝罪と、若干?の訂正、そして釈明をしようと思います。

昨日の日記:文化時代(200年前)の古文書を焼き捨てる|Lead Pointerの使い方


義憤に駆られた者

歴史学を大学で教えている者です。
素人考えで古文書を燃やすなど、言語道断です。
しかるべき処置を加えれば、研究史料として活かせたかもしれません。
古文書を金銭で取引する古物商を軽蔑します。
大学なり博物館なり、しかるべき機関に預けるべきです。
あなたは文化の破壊者です。


 

先ずは不快な思いをさせてしまったことに対して、謝罪をします。すみませんでした。

次は若干?の訂正です。

先日は古文書と書いた例の書物ですが、実は手習いだったり、往来物や小唄長唄の束でした。

プロの人たちが読むと分かっていれば、間違っても「古文書」とは書けないようなものだったので、その点ではご安心下さい。


古文書 (こもんじょ)とは、広く「古い文書」の意味でも使われるが、歴史学上は、特定の対象(他者)へ意思を伝達するために作成された近世以前の文書を指す。特定の相手に向けたものではない文書、例えば日記や書物などは古記録と呼んで区別される。日本史の分野で多く用いられる用語であり、日本以外をフィールドとする場合、古記録とまとめて文書史料、略して文書(もんじょ)と呼ぶことが多い。

古文書 – Wikipedia


 

ではなぜ「古文書」と僕は書いたのか、理由は2つあります。

1つ目は、「古記録」と書くよりも、「古文書」と書いた方が圧倒的にキャッチーだと思ったからです。これはブロガーとしての性です。

2つ目は、僕の行く業者市場のノリが抜けていなかったからです。

 

僕の行く業者市場では、大して価値のないものが競りにかけられた場合、さも価値のあるものかのように、会主(胴元)たちがふざけることが多々あるのです。

例えば「通い徳利(とっくり)」が競りに掛けられた時は、通称の「貧乏徳利」などとは言わずに、ふざけて「殿様徳利」と呼ばれるのです。

僕以外の全員にはその冗談が通じているのですが、まだ通い出したばかりだった僕は、まんまと「殿様徳利」を信じ込んで落札してしまったことがあります。

1年以上も売れずに残った末に、つい先日業者市場で(二束三文で)処分しました。

この「殿様徳利」と同じノリで、その日僕が落札した虫食い穴だらけの「古記録」も、会主の皆は「古文書だよー、古文書ー!」とニヤニヤとしながら競りを進行していたのです。※本物の古文書が出る場合は、競りの会場も変わります。

 

昨日焼いた書物は、確かに古い文書ではありますが、数万~数十万円(それ以上も…)で取引されるような価値のある古文書は、間違っても僕の手元までは降りて来ません。※骨董は、海千山千の世界です…。

今回僕が買った古記録も、僕が手をあげなければ処分される運命の、もう誰も価値を見いださないような出殻のようなものだったのです。

※骨董の大先輩方にとっては出殻でも、僕には彼らにはない販路があるので、そんなところで何とか生活しているのです。

釈明というか言い訳のようなものも書き終わったので、本題に進みます。

 

これまで読んできた中で、「古文書」だろうが「古記録」だろうが、200年前の文書を焼くこと自体に問題があると思った方がいたかもしれません。

言いたいことは分かります。

 

僕たち古物商(※僕は見習いだけど)は、取り壊されるような古いお宅に眠っているかもしれないお宝(歴史的価値のあるものなど)をサルベージしようと、多大な労力とお金を費やします。

電気も水道も遮断された廃屋で、ホコリやネズミのフンなどにまみれて仕事をするなんてことも珍しくありません。

僕らに取り逃しがあれば、後は産廃業者によって処分されてしまうので必死なのです。

それでも苦労だけして大損してしまうこともあり得るので、この業界ではどんな属性の人間でも、必死に勉強する人が殆どだと思います。

 

古物の勉強をする切っ掛けがお金であろうとも、確かな目利きには価値があります。

古物商は、もしかしたらいかがわしい仕事のように思われるのかもしれませんが、しかし古物商がこの世からいなくなれば、一体どれほどの歴史的価値のあるものたちが家ごとスクラップにされ、この世から失われることになるのでしょうか。

 

いくらきれい事を並べていても、実利がなければ人はなかなか動けません。

顔の前にお金をぶら下げることが良くないという人もいますが、しかしこの世はお金を中心に回っているで、無償では動けないというのは当然なのです。

 

つまり、いくら200年前の文書でも売れないのであれば、僕は処分するしかありません。

そう突っぱねても良かったのですが、本当に“しかるべき処置を加えれば、研究史料として活かせたかも…”というのであれば、僕もそのお手伝いが出来るかもしれません。

そこで提案なのですが、今後も同じ様な場面に出くわすことがあると思うので、その場合はこの日記で報告するので、“大学なり博物館なり、しかるべき機関”に預けることが出来るという人は、名乗りを上げて下さい。

着払いにはなりますが、指定された住所へ送付致します。

手間ではありますが、僕も“文化の破壊者”にはなりたくないので、是非ご協力させていただきたいと思います。

 

おまけ

 

昨日の日記には、もう一つコメントがありました。(ありがとうございました。)

せっかくなので、このコメントにもこの日記で返信したいと思います。

 


いちきゅー

お久しぶりです。
製図用の芯削りで使い方も合ってます!
何十年振りかで見ました。
今はpcで書いてウエーブでやり取りなのかな。
若かりし日、図面を毎日描いてた事を思い出しました。


お久しぶりです。

使い方が合っていると分かり、安心しました。

確かな情報をありがとうございました。

 

実は僕も、(学生時代のアルバイトですが、)少しだけ設計事務所で仕事をしたことがありました。

やはり図面はパソコン(AutoCAD)でしたね。

 

おしまい。

 

※週末からの三連休は、少し遅い夏休みにしようと思います。



“古文書を燃やしてごめんなさい” への2件の返信

  1. はじめまして。
    私も実家からBerol Turquoise製の鉛筆芯削を発掘したばかりでした。学生時代、皆マメに芯を尖らせ製図していましたが、私は面倒なので先がどんどん丸く先の太くなる(図面が汚い)ということがあったので、CADになり安堵しました。

    ところで古文書の件です。
    ボロボロであったこと、これから役に立つことは無いだろうとの判断の元、他のゴミと一緒に捨てられるところを、買い取って?焼いたという所にある種の愛を感じました。
    フリマで両隣が古物商?の方だったことがあり、精神的に豊かな素敵な方々だと思いました。昨日はまたその方々とお会いできるかと思いましたが事前に中止になってしまいました。

    1. 鉛筆削りの件、奇遇ですね。

      初めて使う機構だったので目新しく、気に入ってしまいました。

      期待して買ったものが虫食い穴だらけだとガッカリします。

      痛いな…と思いながら焼いています。

      骨董の世界のベテランたちは、一癖も二癖もあったりしますが、変わった経歴の人が多いからか、面白い人が多い印象です。

      良いところは吸収し、駄目なところは反面教師にして、もう少しクリーンな印象を獲得出来たら良いなと考えています。

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