この世には変わった人がいて、中にはフルーツしか食べないという人がいます。
そんな人のことを「フルータリアン」とか「果実食主義者」、その主義のことを英語にすると、「Fruitarianism」となります。
ベジタリアンや、特にビーガンを実践することになったきっかけが動物の命を奪うことに対しての拒否反応だったりアンチテーゼだったりする場合がありますが、このフルータリアンは動物に加え、植物の命も奪いたくないという考えが根底にあるようです。
人に強要したり迷惑を掛けない限り、好きなだけ自分のポリシーを貫けばいいと思いますが、この日本で協調性なく生きていくのは非常に難しいと思います。
僕は動物肉を摂取しない生活を何年も前から実践中なので、この大変さは分かるつもりです。
特に就職なんてしてしまうと、とても大変だと思います。
僕の場合は、新入社員全員を対象としたセミナーのような場面で、昼は皆に弁当が配られましたが、僕は自前のうどんを持っていって食べましたし、職場の同僚でお酒を飲みに行くという話が出たときには、その場に僕がいたら焼肉屋さんは除外しなくてはならなくなるようだったので、そっとその場を離れたり、嘘の用事を入れたりしなくてはなりませんでした。
そんなことが頻繁に起こるので、メンタルの問題から完全なるベジタリアンを続けることは難しくなりました。
結局「魚」だけは食べるという妥協をすることになります。
スーパーへ行って、食品のパッケージを詳しく見てもらえれば分かりますが、魚をokにするだけで、かなりの選択肢が増えるのです。
まあ、動物肉を拒否しているだけで、感覚的にですが、スーパーの商品の半分くらいは食べられなくなるようなイメージがあります…。
ふと疑問が湧くのですが、動物肉は食べないけど魚は食べるという、この中途半端な主義のことはなんというのでしょうか?
魚菜食者のことを「ペスコ・”ベジタリアン”」と呼びますが、僕はこれかと思ったのですが、詳しく調べてみると、「ペスコ・”ベジタリアン”」は卵や乳製品を食べないようです。
ベジタリアンには結構な種類があります。細かく種類分けをしていくと、横並びではなく、上位下位があるような、ヒエラルキーのようなものが出現します。
これはベジタリアン協会の話ですが、魚を食べるくせにベジタリアンを名乗るべきではないという議論が始まるのも、このヒエラルキーがあるためのような気がします。
例えばこれは、何かを深く信仰する人たちの、「選民意識」を彷彿とさせるものがあります。
自分がもう動物肉を食べたくないと“勝手”に始めたことだとしたら、それをわざわざ人に話す必要はないし、どっちが勝っているかという考えも、目線が変われば勝敗も変わるのだから、無意味なことなのかもしれません。
そして僕はカッコいい名称を諦め、普通に「ノンアニマルイーター」ということにしようと思います。
今日も大分脱線しました。
実はスーパーで半額シールの貼られたマンゴーを見つけ、高揚したということを書こうと思っていました。
しかし定価が2000円と書いてあったので、半額だとしても僕には買うことが出来なかったということを書きたかったのです。
日本はフルーツが特別に高いと思います。
小学生の頃は木になっているビワやザクロを食べたという思い出がありますが、近所のスーパーでは驚くほどの値段がついています。
ここは山梨なので桃や葡萄が有名ですが、僕のような小屋暮らしにはとても手が出ません。
これらの果物は、都会から訪れる観光客の食べ物なのかもしれません。
こんなことがあるため、日本でフルータリアンは難しいだろうなと思い、話が脱線していったのです。
ちなみに、全く手をかけていない苺の密集地があるのですが、1週間ほど前から続々と収穫が出来るようになってきました。
最初は5粒くらいだったのですが、次の日には15粒くらいになり、今では毎日30粒くらい採れます。
いや、30粒くらいで収穫が面倒になるので、どれも小さいものではありますが、厳密にいうと採れきれないほどの苺が採れています。
今はまだ、果物としては苺しか採れませんが、敷地には、ブルーベリーやリンゴや梨、柿にプラムが植えてあります。
いつになったら収穫出来るようになるのかは分かりませんが、日本でフルータリアンを実践するなら、自家栽培が近道かもしれません。
あとはスーパーでバナナなら安く買うことが出来ると思います。
バナナはヨーグルトと一緒に食べるのが美味しいと思っているので、僕はフルータリアンにはならないと思います。
おしまい。