自然から得られるもの以外は贅沢品?

早寝早起きを心掛けていますが、昨日は日本で金融業を営む青年の映画が何故かインターネットの動画サイトに上がっていて、これって本当に視聴出来るのだろうかと確かめるつもりでクリックしたところ、いつしか動画サイトで見ていることなど忘れてしまうくらいハマってしまいました。

主人公は無口な青年です。まだ若いのに金融業の社長です。社長業もそれに付随する人間関係のしがらみもとても大変なもののようです。映画のタイトルは確かウシジマさん、、だったかな?

映画の途中でルーターのバッテリーが底を突き、現実に戻りました。時計を見ると大分深い時間帯になっていました。

慌てて布団に入りましたが、枕元の本を読むというルーティーンが、夜更かしを助長させます。

 

いつもよりしっかりと1時間遅く起きました。

朝方生活を貫くための最終防衛線と思えるような時間だったので、今日の夜はアイマスクをしないで寝るなど、何かしらの対策をしようと思っています。

 

なんだか今日は物凄く暑かったです。

まるで夏のような日差しに怯み、とりあえず午前中は小屋の中でブログを書こうと予定を変更しました。

ソーラーパネルで作った電力をインバーターで100Vに昇圧し、パソコンに繋げます。当たり前のように充電ランプが点灯しますが、未だ「太陽光→電力」という図式は腑に落ちず、大げさに表現すれば夢を見ているような日々です。

良い天気なので、モバイル式の小さなソーラーパネルも日差しの強いところに仕込み、一日掛けてモバイルバッテリーの充電もやっておくことにしました。

太陽光が降り注がなくなっても雨が降らなくなっても僕の生活は破綻します。それは確かなことですが、考えてみればそれはこの世界で暮らす全ての人々にも同じことがいえるので、自分ばかりが時代錯誤で変わった生活をしているとはいえないのではないかと思いました。

自然からは暖を取る為の燃料も、野菜や果物などの食材も享受することが出来ます。

もしかしたら自然から享受できる以外のものは全て贅沢といえるのかもしれません。

贅沢な暮らしを維持させる必要があるから、僕らはやりたくもない仕事だってやらなくてはならないのかもしれません。

贅沢を控える代わりに自由な時間が欲しいと考えたとしても、実際に行動に移してしまったら、集団生活を損なったり、将来不幸になってしまうと心の何処かで信じ込んでしまっていたような節が、過去の自分にはあったように思います。

結局のところ僕は現在のスタイルの小屋暮らしを選びました。これは未来を想像出来てしまう暮らしよりも、世間に後ろ指を指されたとしても「不自然ではない」と思えるような暮らしがしたかったからだし、安全や安泰といった生活を目標にしたくはなかったからだと思います。

僕は冬を暖かく過ごせるように、集めてきた丸太を割って薪を作り、汗を流すために川から分流されて来ている用水路の水を汲み、ちょっと冷たすぎたけど頭からかぶり、自転車にのって近所の商店で定価販売のアイスクリームとペットボトルのリアルゴールドを買って飲みました。

こんな日々をかけがえのないものだと思えているし、これは相対的にだけど、本当に「楽になったなぁ…」と実感することが出来ています。

2つ持っているロッキングチェアの一つは、野外用です。

背もたれを全部取ってしまい、大きな座面だけになったところに胡座をかいてゆれたり、両足で立ってバランスを取って遊んだりしていると、最近知り合った近所のお金持ち夫婦が、今度ピザパーティーをするから遊びに来てねと誘いに来てくれました。

受け取るばかりでお返しが出来ないストレスというものもありますが、世帯主レベルで考えると、僕はこの一帯で明らかに一番の年下なので、まあ今のところは甘えていても良いかと最近は気楽に考えることが出来るようになってきました。

どうせなら、「僕は動物肉を食べられないから、特別仕様のピザも用意しておいてね」ってレベルにまで到達しておかないとお互い気まずいことになりかねないので、こんなところはもっと精進しなくてはならないと思っています。

おしまい。







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