心に住んでる”ラッキーマン”

今日はタイニーハウスピリオディカルズ向けの記事を書くためだけに図書館へ行くことにしました。

記事のネタはいくつかあるのですが、僕の中で旬が過ぎたものはいざ書き始めたとしても気分は乗ってきません。

ではどんなことだったら楽しく書けるのだろうかと頭を捻りますが、この作業はあまり面白いものではありませんから、ふとすると今日の日記のことを考えてしまいます。

ところが図書館前に寄ったコンビニで残高照会をしたところ、昨日までは引き出せる金額に達していなかったはずのデジタルの数字に変化がありました。

タイニーハウスピリオディカルズ向けの記事を書こうという気持ちが俄然高まりました。

やはり人間は単純な生き物です。

傍から見たらか細い人参に見えることでしょう。しかし現在の僕はかつてのマンション住まいだったサラリーマンではありません。

月の出費額を考えると、現在はおよそ1/5の支出で生活していますから、目の前にぶら下がる人参は、僕にとってはおよそ5倍の太さに見えるのです。

念願の人参を手にすると、今度は財布の紐がゆるゆるになってしまいます。

これはこれで危険なので、先ずは外国人向けのお店に並べる商品の仕入れを少しだけしました。

とはいえ、最近はめっきり売れなくなったので、来月の中旬辺りにまた東京の骨董市にでも行って、まるで“ギャンブル”のような仕入れをしにいくことになりそうです。ざわっ…

 

“ギャンブル”繋がりですが、僕は子供の頃から事あるごとに「運が良い」と言われ続けてきました。実際にどんなことがあったのか、今では殆ど思い出すことは出来ませんが、少なくとも周囲の大人は僕のことを「運の良い子供」だと言い続けたのです。

少年の僕は「運が良い」と言わて悪い気はしませんでした。

「運が良い」と言われ続けることで、例えば取るに足らないちょっとした幸運でも、「やっぱり僕はラッキーマンなんだな」と思う癖がつきました。

では逆に、誰が見ても不運だと思うような場面ではどうだったのかというと、それでも「ラッキーマン」な考えは揺らぐことがありませんでした。

どんな状況においても、例えばご飯が美味しいと感じたり、自分の好きなテレビ番組が流れたくらいのことでも、「ラッキーマン」は安々と登場するようになるのです。

つまり、根っこの部分ではいつでも楽観的というか、馬鹿が付くほどのポジティブ、悪くいえば現実を直視出来ない子供になっていったのです。

この悪癖は青年期になってようやく指摘してくれる大人が現れたことで改善に向かいます。

僕は戒めの意味も込め、スピリチュアルな考えに引っ張られそうになったらなっただけ、一日に何度だって、「ラッキーマンはいない、ラッキーマンはいない」(※後に「神はいない、神はいない」へと変化と呟くようになりました。

そう呟くようになってからは、少しずつですが現実を直視し、改善の為の努力が出来るようになったような気がしています。

もしかしたらこれが大人になるということだったのかもしれません。

 

しかし、今にして思えばあの「ラッキーマン」とは、辛い日々を生き抜くための処世術とか、悲しい現実逃避だったのかもしれません。

もしタイムマシーン乗ることが出来るとしたら、僕は真っ先に少年時代の自分の前に現れ、(※出来ればそれっぽいコスチュームを着て、)「本物のラッキーマンになる方法を伝授しよう!」などと言葉巧みに誘い出し、僕の住む小屋に連れ去りたいと思います。そして力いっぱい抱きしめるのです。

 

今日の日記は書き終わったので、これからまたひと記事も書けていないTPの方へ戻りたいと思います。

 

・食材:1996円
・昼:208円
・雑貨:756円
・猫:1071円
・仕入れ:3888円

【図書館】
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