押し付けがましい人|『ああ、楽しいな…』

24時間を細切りにしたような日々を送っている人がいれば、凪のように静かで、悪くいえば代わり映えのない人生を送っている人もいます。

どちらが良いというつもりはないし、その気になればいつでも取り替え可能だと思っているので心配もしていないのですが、一つ、気がついたことがありました。

これは僕の兄との会話の中で起きたことなのですが、兄が以前住んでいたマンションに、僕が行ったことがあったかどうかという話になったことがあります。

兄は僕がそのマンションには来たことがないと思っていたようなのですが、僕は行ったことがあったので“ある”と言いました。





もっといえば、少なくとも5回は行ったことがあると断言することだって出来ます。

僕は兄の記憶力が心配になったので、同席していた兄嫁に同意を求めたのですが、なんとこの兄嫁も、「どうだったっけ…?」と曖昧な記憶しかないと言ったのです。

その場ではなんともない振りをしていましたが、僕にとってこれはとても大きなショックでした。

一説には、死期が近付いている人は透けたりボヤケて見えることがあり、人の印象にも残りにくくなるといいます。

僕はこのような話を鵜呑みにはしませんが、ふとそんなことを思い出してしまいました。

普段忙しくしている人というのは、会った人のことやその場の会話、空気感など、しっかりと覚えておくことが出来なくなるということ、そして普段代わり映えのない生活を送っていて、あまり人と接さないような人は、いつまでも同じ記憶を反芻するしかなく、良くも悪くもいつまでも過去の記憶の中に生き続けてしまうのだと思います。

 

大袈裟かもしれませんが、ひと月に100人と会話する人と、1人としか会話しなかった人を比べてみれば分かるように、同じ人間であっても環境によって能力の使い方や成長の仕方は大きく変わります。

たったこれだけの事例ですが、それでも人はそれぞれに個性があり、当然得意分野も違うのだから、ひとまとめに考えたり無理やり同じルールの中で共同生活をさせるというのは無理があると思ってしまいます。

 

世の中には、やたらと“こうすべき”とか、“こうであるべき”と、自分の思想を押し付けてくる人がいますが、そのような人はどうしてそんなことが言えるのだろうかと不思議になります。

親が子供を躾ける時は、ある程度“神の視点”のようなものが必要になるのかもしれませんが、赤の他人に向かって絶対の自信を振りかざすことが出来る人は、それだけの根拠を持っているか、もしくは言葉巧みに騙そうとしているのかもしれません。はたまたその人自身が洗脳されてしまっているという場合も多いのかもしれません。

僕は押し付けがましい人をみると、ついそんなことを思ってしまうのです。

 

少なくとも僕は、実際に自分が体験したことや、やってみて分かったことだけを口にするようにしていきたいと思います。そう心掛けなくては、自分でも気がつかないうちに自分の頭で考えた事以外の、つまり見ず知らずの他人の言葉を喋らされてしまうことになりかねないと思います。

 

 

社会人として生きてきたこれまでの人生では、他人との距離がとても近く、少なくとも週に5回は自らそんな他人だらけの集団の中に身を投じなくてはなりませんでした。

性に合わなかったり、慣れないながらもやってきたお陰で身に付いたことも多くあると思っているので後悔はありませんが、今のように自問自答したり、一つのことをしつこいくらい捏ねくり回すように考えるゆとりはあっただろうかと考えてみると、僕にとっての雇われ仕事というものは、身も心も磨り減らしてようやくこなせるようなものだったので、自分の時間があったとしても、残念になるくらい気力が残っていなかったと思います。

僕の場合、気力がなくなるととことん受け身になってしまいました。

具体的にはクリエイティブなことが出来なくなり、テレビを見続けたりインターネットにどっぷりと浸かるような生活しか送ることが出来なくなっていたのです。

 

 

最近タイニーハウスピリオディカルズの更新が疎かになっていたので、今日は久しぶりに図書館へ行きました。

文章を書いている時もブログに使うイラストを書いている時も、テレビを見ている時と同じように夢中にはなっているのですが、ふと手を止めた時に感じる達成感や静かな高揚感というものがあり、更に次はこうしようとかああすれば良かったなどと思うので、『ああ、楽しいな…』と思うのでした。



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