ヘビを助けた話

突然ですが、「足るを知る」「住めば都」は少し似てるというか、根っこのところでは繋がっているのではないかと思います。そしてこの2つの言葉を良い言葉だと鵜呑みにするのは危険だと思います。

貧乏な生活がキツいから、頑張ってそこから抜け出そうという人と、貧乏な生活も捨てたもんじゃないと日々の生活の中に幸せを探そうとする人と、一体どちらが正しいのかと答えを出せる人はいないと思います。





どちらの考え方が自分には心地よく感じられるのか?実際はどちらの考え方が自分には向いているのか?などの疑問が沸きますが、結局どちらの感覚も大なり小なり持ち合わせているのが人間なのだろうと終着しかけます。しかしそこで終わりにしてしまうと何の解決にもならない訳で、そんな葛藤を続けているとやがて面倒になり、何もする気が起きなくなってしまいます。

 

今僕が苦労して作ろうとしている新しい小屋だって、本当に必要なものではありません。より居心地の良い空間を求めているだけなので、贅沢なことをやっているのです。

新しい小屋を建てようとした僕は、「幸せは先にある」と考えたのだろうし、明日から数日間、何もせずに引きこもってみようかと想像している僕は、「幸せはここにある」という考えが根本にあるのかもしれません。

 

 

久しぶりに近場の図書館へ行って、写真の整理をしたりブログを書いたりしていたのですが、図書館の掲示板に貼ってある様々なイベントの告知が目に入りました。

例えば星の観測だったり、山歩きだったり、バードウォッチングや料理などもあり、僕もこういう健全な趣味を持てば冬も楽しく過ごせるかもしれないし、少しはコミュニティの輪も広がるのかもしれないと思いました。

しかし、新しい環境に入っていくことを“恐ろしく面倒くさい”と感じてしまう僕のようなものは、残りの電気と相談しながら映画を観たり、ヘッドライトの灯りで本を読んだりしているのがお似合いだとも同時に思っていました。

友だちが欲しいと思いながらも、友だち付き合いが面倒くさいと感じるような人間が、それだったら仮想世界で楽しもうと思ったところで上手くはいかないのかもしれません。

老後はオンラインゲームの世界にどっぷりという未来も選択肢に入れておくべきだと考えていただけに、少し心配になってしまいます。

 

 

今日はいつもと趣向を変えて、夕食後に風呂に入りました。

寝る前に風呂に入るというのが一般的だと思いますが、電気のない生活だと、明るいうちに風呂を終えてしまいたいと考えるようになります。

その為、今日みたいに夕食が終わってから風呂に入ったのは始めてのことでした。

夕食の後に風呂に入るなんてことは当たり前に出来たことですが、この歳になってようやく、それが贅沢だったことに気が付きました。

清潔でいられることや、ぐっすりと眠れること、誰からも文句を言われず生きていることだけでも、僕は幸せを再確認しなくてはならないのだと思います。

 

 

書き忘れるところでしたが、今日はヘビを3匹も助けました。

 

この用水路の右下のところに、3匹ものヘビが流れに逆らうことが出来ずに藻掻いていました。

 

拾った木の枝では短すぎて怖かったので、一度小屋に戻って虫取り網を持って来ました。

 

どのくらいの間水の中で藻掻いていたのか分かりませんが、どのヘビもグッタリとしていました。

 

溺れているヘビを助けようが見捨てようが、どちらでも実はそれほど構わないと思っています。しかしヘビを助けない場合は、いつまでも頭の片隅ではヘビが溺れて苦しんでいるという記憶が残ってしまうので、そのストレスに苦しむくらいだったら、サッとヘビを助けてしまったほうが、僕の精神衛生上は良いことだと思います。




“ヘビを助けた話” への4件の返信

  1. 蛇を助けると、後日その蛇が綺麗な若い女に身を変えお礼に来て、竜宮に招待されて死ぬまで
    食べ物や電気に困らない黄金の餅をくれるらしいですよ!                お風呂入り放題、ゲームやり放題でも黄金の餅は減らないそうです。
      今昔物語集 「観音に仕りし人、竜宮に行きて富を得たる語」より

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