絶望からの探偵気取り

絶望に大小という概念があるのか分からないけど、僕は今、小さく絶望しています。

隣町の図書館に行くことはもう何日も前から予定をしていて、図書館へ行く前にどこで朝食を済ませるかというところまで細かく計画を建てていたというのに、図書館の学習室の椅子に腰を下ろし、バックパックを開けた途端、中からは絶望が湧き上がってきました。

今日は図書館で一日、ブログを書いたり調べ物をしたり、必要なものを注文したり、作ったものを売ったりしようと思っていたというのに、パソコンの充電ケーブルを入れ忘れてしまいました…。

日向に置いた新しいソーラーシステムの中にケーブルを入れたままにしていたのが、今回の災難を招いたといえます。

 

カミナリに打たれるような乾いた衝撃ではなく、鈍器で叩かれるとか、海底に引きずり込まれるような、どちらかといえば湿っていて重たい痛みが僕の中で発生しているのを感じていました。

昨日の夜、明日は図書館へ行くからと安心して夜中までパソコンを使い続けた結果、パソコンのバッテリーは空っぽです。

大なり小なり絶望すると、その絶望を脱することが目下の課題として挿げ替えとなるので、タイミング悪く幾つかの絶望に連続して襲われると、一人で何役もやらされてしまう、いわゆるブラック企業で働いていた時みたいに、肉体よりも気持ちの方が先に参ってしまうことになりかねません。

これ以上絶望を積み重ねたくないと思った時、人は引きこもるのかもしれません。

全ての絶望に脱出口が用意されているとは限らないので、一度絶望に絡め取られてしまったらいつまでもそこから抜け出せずにもがき苦しむことだって珍しくはないと思います。

とにかく、次からは充電ケーブルを忘れないように気を付けます。

僕は2台のパソコンを使い分けています。

1台は重たいアプリケーションを動かす為の作業用パソコンで、もう1台はインターネットの閲覧やメールなどの送受信、そして毎日の日記を書いたりするのに使っています。

作業用パソコンは、基本図書館へ行った時にしか使いません。

内蔵バッテリーが2時間も持たないからです。

普段小屋の中で使っているもう一台のパソコンなら、内蔵バッテリーが満充電になっていれば、6時間以上は使うことが出来ます。

買ったばかりの頃は確か10時間くらい使えた気がしますが、やはりパソコンのバッテリーというものは、充放電を繰り返す度に弱っていくようです。

今日は、主に日記を書く為のパソコンの充電ケーブルを忘れてしまったので、作業用のパソコンで日記を書いています。

画面も大きいし動作もテキパキしているので使い易いです。

日記は今いる図書館で書いてしまうことが出来ますが、今日はこれから帰宅してもパソコンを使うことが出来ません。

 

さて、パソコンのなかった時代、僕は夕食後に一体どんなことをして過ごしたのでしょうか?

きっとテレビをみたりゲームをしたりしている時間が長かったような気がします。

しかし今の暮らしの中にはテレビもゲームもありません。

 

いや、、嘘をつきました。

ゲームといえば骨董市で300円で買ったニンテンドーDSを持っていました。

そして前に買ったけどまだやっていなかったゲームソフトもありました。

 

「西村京太郎サスペンス 新探偵シリーズ」というソフトです。

今日は夜を徹して、これの謎解きに取り掛かろうと思います。

 

ちなみに、このソフトのことは全く知らずに買ったのですが、買うことになった切っ掛けは、100円という価格です。

今調べて分かりましたが、これは10年くらい前のソフトのようです。

10年くらい昔にも当然面白いゲームソフトはあったはずなので、目線を最新の家電や娯楽から一昔まえの物にシフトすることが出来れば、これは立派なライフハックだし、自分の見えている世界は一変するのかもしれません。







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