遠すぎる目標は冷める

8月一杯は、[3日勤務-1日休み-2日勤務-1日休み]のシフトですが、明日は前々から約束があったので、仕事は休みです。

明日が休みだと思うと、気兼ねなく夜更かし出来るので嬉しいです。

仕事がある日もない日も、布団に入る時間に大差はありませんが、心持ちは大きく変化します。

例えば大きなトラブルを抱えた状態で遊びに行っても楽しめないのと同じで、明日早起きしなくてはならないこと、賃金を得るために指示に従ったり、または自分の頭で考え、臨機応変に対応したりという労働が待っていると思うと、どうも調子が出ません。

虫の鳴き声や川の流れる音に意識を傾けることが出来るのは、多分にゆとりのある時なのだと思います。

 

本を読んだり映画を見ている最中、当然夢中になることもありますが、ふとすると「明日は仕事か…」と嫌なイメージが湧いてしまいます。

何かに夢中になっている時間は、まるで水中に潜るような感覚があります。とすると、「明日は仕事か…」と考えてしまうのは、きっと息継ぎなのだと思います。

生身の人間は、永遠に水中で過ごすことは出来ません。

必ず息継ぎの為に水面に顔を出さなくてはなりませんが、地上では「明日は仕事か…」が手ぐすねを引いて待っていて、僕は息継ぎの度にそいつに水を差されるのです。

 

昔はこんなことを思ったり口に出しそうになると、仕事の中に楽しみを見出そうとしたり、今の苦労はきっと次に繋がると思って頑張りましたが、しかし自分を洗脳するようなやり方は長続きしませんでした。

いつの間にか僕は週末だけを心の拠り所とするようになっていました。

 

海外を旅している期間に話をした人の中には、旅の醍醐味は仕事をしなくても良いところだと言って、極力お金を使わず、最安値のようなゲストハウスで何年も泊まっているような人がいましたが、その時の僕はそういった人達のことを軽蔑していました。

何故ならその行動は嫌なことの先延ばしでしかなく、根本的には何の解決にもなっていないと思っていたからです。もっといえば、目を逸らす日々が長引けばそれだけ、自分の首を締めることになると思っていたのです。

この人は何のために生きているのだろうかと余計なことまで考えたものですが、今になって考えると、僕だって心の根っこのところでは、「仕事をしたくない」というような、彼らと同じような気持ちがあったからこそ、過剰に反応していたのだと思います。

 

今ならハッキリと言えますが、僕は雇われ仕事が大嫌いです。

ブラックとかホワイトなんて関係がなく、よく知らない人に頭を下げて、「是非御社で働かせて下さい」とありもしない志を提示するようなことはやっぱり嫌だし、そんなことを続けていると、そのうちに素の自分を見失ってしまうような気がします。

海外に行くためだったり、何か自分で仕事を始めたいと思って働いていた時は、ブラック企業でも、曲がりなりにも職務を全うすることが出来ました。

しかし目標が失くなってしまったからと仕方なく就職した時は、ホワイトな環境であっても、とても続けることが出来ませんでした。何故なら、目指すゴールが60歳とか65歳だったからです。

 

間違っても僕は、「就職すべきではない」なんて言うつもりはありません。

今になって分かったことは、就職する会社で何がしたいのか、どんな仕事を受け持ち、成していきたいのかがリアルに想像出来なくてはならなかったということです。

僕は就職に安定を求めていたので、給料や福利厚生などを重視してしまいましたが、こんなことは二の次だったのだと思います。

 

僕はまるで社会からドロップアウトしてしまったように見えますが、働いていた会社を辞めなければよかったと後悔することがこれまでにただの一度もなかったので、経緯はどうあれこの小屋に辿り着けたのは幸運でした。

 

今日は自分の頭の中を整理しておきたかったので、このような内容になりましたが、結局は人それぞれなので、この考え方も小屋暮らしが楽しいというのも、もしかしたら僕にだけしか当てはまらないものなのかもしれません。

なんにせよ、後悔しない為にはやはり自分の頭で考え、選択するしかないのだと思います。







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